1970年代後半〜1980年台前半 その2
京阪沿線に住んでいましたので、必然的に撮り易い京阪電車の写真が多かったのです。が、
それ以外の私鉄の中古にも大変興味がありましたので、他私鉄もそれなりに撮っています。
現在は本線にぶった斬られた、阪急電車今津線と神戸線のダイヤモンドクロスです。
いわゆる平面交差、と言う奴です。線路もさることながら、架線のクロスも鉄製です。
ここを今津に向かう920系宝塚寄りの運転台を『後追い』の形で撮影。
今津線には当時は大型車として1200系が入っていました。
これは門戸厄神駅の西宮北口方からの撮影です。電車は宝塚に向かいます。
阪急電車の920系は、資料によれば2両ペアでした。この時代は既に片方が中間車化されて
いる車両が何本かあり、この列車も3+3の6連となっていました。
1200系と並ぶ大型車両である820系。これの京都線バージョンが720系です。
この820系と720系、そして800系は前照灯がこのタイプです。
ここからは能勢電軌、です。車両の殆どは阪急電車から譲渡されたものです。
この520系も2両1ペアでした。
場所は平野車庫。やはり当日恐る恐る事務所に向かい、事情を説明して車庫内撮影の許可を
得て撮影したものです。
非貫通タイプの660号車。
同じ660型でも661号車は窓枠が白く、貫通型で非常に綺麗な車体でした。
それもそのはず、この数か月前に阪急から能勢電に移籍したのです。
これは恐らくはアメリカ・ボールドウィン製の台車でしょう。弓型のイコライザーが特徴的です。
当日の撮影で撮りたかったのがこの320系+520系の5連急行。
320系は当時は残り少ない両運転台車両ででした。
平野車庫に佇む106号貨車。
荷物置き場として使われていた60号廃車体。
朝1本、夕方1本だけ運転していた川西能勢口〜国鉄前(現在のJR宝塚線川西池田駅)の
51型単車電車。
この撮影後すぐに画面左側にあった盛り土のホームからこの電車で川西能勢口駅まで数百メートル
を乗りました。床の一部に穴が開いていて、路面が見えていたのを覚えております。
今なら大問題でしょう(笑)。
ここからは近畿日本鉄道。
現在の伊賀鉄道、当時は近鉄伊賀線の上野市駅からの撮影です。
駅と車庫が接しており、駅ホームからこのような形で撮影できました。
ウィキペディアによると、関西急行電鉄のモ6311形です。
この原型となるのが、関西急行電鉄のモハ1型 『関急の緑の弾丸』こと6301型です。
これが近鉄養老線、現在の養老鉄道の美濃太田駅での撮影です。
列車は養老線に在籍した6301型=改番して5301型となった4連で構成されていました。
その先頭車を撮影。
近鉄養老線 西大垣駅での撮影。当時の3連は、近鉄で言うところの、ク+ク+モ、
クハ+クハ+クモハで編成されていました。電動車が1両、制御車2両です。
何処で撮影したかすっかり忘れてしまいました。
左端の短めの車両は、確か三重交通の車両を合併後どうこうして養老線に移籍させた、
様に聞いています。だから窓割が右の車両=6560形と異なります。
近鉄名古屋線本線の駅の何処か。
午前中は養老線の撮影で美濃太田近辺をロケハン撮影し、午後はさすがに疲れて歩き回るのが
面倒になったように記憶してます。そこでお手軽な駅からの撮影となりました。
当時は、特急列車も同じような規格の車両が沢山あり、それ程熱心に撮りたいとは思っておらず、
今となってはもっとしっかり撮っとけば良かったかな、と後悔してます(笑)。
そんなもんです。通勤電車として千何百両も有った国鉄の101型、103型など当時から
撮りたいとは思ってませんでした。それがどんどん数を減らし、一挙に両数を減らし始めて、
『それなら思い出として』撮りたい、と言う気持ちは判ります。
が、毎日のように通勤いや痛勤で押し込まれた人員を運ぶだけの電車にノスタルジアを感じるか?
と言われれば、自分は今も103系や205系を撮り損ねた、とは思わないのです。
偶然通り掛かった荷物電車。
路線延長の長い近鉄線では、1980年頃まではこうした荷物電車が走っていました。
現在でも、朝の快速急行に付随する形で鮮魚列車=おさかな図鑑、が走っています。
右のホームに佇む女子学生の制服のスカートが長いように見えますが、当時はこの長さが
スタンダードでした。
これも当時どんどん車両を減らしていた、元大阪線の特急列車、2250系の成れの果て。
近鉄特殊狭軌、ニブロクゲージ軌間762mm、近鉄内部線、現四日市あすなろう鉄道です。
日永駅は内部線と枝線の八王子線が分岐していました。1980年頃は有人駅でした。
八王子線はその数年前の水害で、日永駅の隣の西日野駅で線路が終わってしまいました。
内部線の枝線、八王子線の日永〜西日野駅間の田園風景。現在は住宅が立ち並んでいます。
当時、内部線の車両は全て『手動』ドアでした。列車が出発する直前と停車直後、
車掌さんがアタフタと扉のラッチ=かんぬきを外したり掛けたりしてドア保全してました。
写真の211号車は130形中間車を挿み、モ+ク+モ、国鉄表記でいうクモハ+サハ+クモハです。
日永駅を出て四日市に向かう2連。手前の133号車には運転台がありません。
ではどうやって四日市から内部に移動したのでしょうか?
これが写真の様に日永駅を出た直後です。
日永駅△−−−−[サ133]+[モ211] −−−−−−−−−△四日市駅
四日市駅に到着します。
日永駅△−−−−−−−−−−−−−[サ133]+[モ211] △四日市駅
モ226が単車で四日市駅に向かいます。
日永駅△−−−−−[モ226]−−−−[サ133]+[モ211] △四日市駅
四日市駅で連結し3連となります。
日永駅△−−−−−−−[モ226]+[サ133]+[モ211] △四日市駅
3連で四日市を出発し、日永、内部へと向かいます。
日永駅△ [モ226]+[サ133]+[モ211] −−−−−−−△四日市駅
これが、四日市駅から内部駅に向かう3連です。
ご覧のように先頭からモ226、サ133、モ211を連結した状態です。
南海本線の貝塚駅から約5qの距離を結ぶ水間鉄道。1984年頃は未だ何回電車の中古車が
色を変えてこのように走っていました。単車運転です。
会社が経営不振か何かで『解散』してしまった野上電車。
野上電車の日方駅から、国鉄紀勢本線の海南駅=野上電車の連絡口駅を見ています。
日方駅から出たところか、到着するのか忘れてしまいました。
社員さんが線路から列車床下を眺めている、のんびりした光景です。
重根駅と言う交換可能駅から見た風景。線路の直ぐ脇に民家の門があります。
車両は元阪神電車の小型車。
これも元阪神電車の小型車。窓の上に明り取りの小窓が6つ並んでいます。
現在も大阪市内を走る私鉄唯一の路面電車である、阪堺電車。
この平野線と言う支線が廃止され地下鉄(大阪市交通局、現在の大阪メトロ谷町線)に
なると言うので、撮影に出かけました。
同業テッチャンも居る事は居ましたが、全線で数名程度と現在では考えられないノンビリした
ものでした。
元大阪市電の旧型車です。既に廃車されました。
たしか、松虫駅からの撮影だったように記憶してます。
神戸と姫路を連絡する山陽電車。
飾磨駅から網干駅までは当時は単線区間でした。どうやら現在も単線区間のままだそうです。
車体は昭和30年頃の新造だとは思いますが、台車は旧型なので恐らくは更新車でしょう。
ウィキペディアなどで『山陽電気鉄道270形電車』と検索してみてください。
最後まで残った、京都全周路線の京都市電の廃止が決定された年の、夏の8月31日の撮影です。
京菓子『おたべ』の看板が特徴的な、八坂神社前交差点付近での撮影です。
御爺ちゃんが杖をついて降車し、子供とお母さん、オバチャンが乗車する日常風景。
僅かに見えるクルマもミラーがボンネットから出ているカタツムリミラーでした。