1970年代後半〜1980年台前半
『カメラ』と名の付くものに触れて撮影を始めたのは中学3年生の頃。
一番最初のカメラはコダック社の110カートリッジ・フィルムを使ったポケットカメラ。
まったくの初心者でも、フィルム装填の失敗がないカメラでした。
オヤジが使っていた、旭光学(現在のリコー)のPENTAX SPを使い、カメラ撮影の基本を覚えていったのです。
これが、ほぼ人生最初のテッチャン写真。
運転台面=電車の顔=鉄道写真、と言う平凡な構図です。ほとんどの人はこの構成を皮切りに、先に進むか
こうした写真に飽きてしまい、別の被写体への向かう筈です。
当時は標準で付いてきた55mmf1.8の標準レンズと、オヤジが後で追加した35mmf4だったか?
絞り解放でも物凄く暗いレンズの2本でした。しかも42mmネジマウントで、電子接点が無いのは
当時の当たり前、絞り値もシャッター速度もピントも、すべて手作業での撮影です。
フィルムもISO(当時はASA感度と言っていた)が100標準、モノクロフィルムになると200とか
コダックのトライエックスでISO400、しかもフィルム1本のお値段が結構高く、現在のデジカメ見たいに
枚数気にせず撮る、何てことは超贅沢でした。
世間一般的には、20枚撮りフィルム(その大分後で4枚追加されて24枚撮りになった)は、3〜4か月
掛けて使う、撮るのは何処かへ出かけるか親戚や友人が遊びに来た記念に、とかのタイミングでした。
鉄道を被写体にする、と言うことは、当時の感覚としては非常に奇妙なことであったのです。
これは現在の京阪電車石山・坂本線の近江神宮前にある、錦織車庫での一枚。
明治時代の車両の台車で、アメリカ・ブリル社のブリル27E1です。
当時は、現在のようなレールフェスタとか車庫一般公開、と言った催し物などなく、
まず事務所にお邪魔して『すいません、鉄道写真が趣味の者でして、撮影許可を頂きたいのです』
と"礼儀正しく"お願いして、許可を頂ければ案内に従い撮影する、と言うことが出来ていました。
これも錦織車庫にあった、電動貨車122号。
これは少しレア?な画像だと思います。
大阪で万博が開催されたのは1970年。翌1971年=昭和46年頃から、
京阪の特急電車が1900系から3000系へと近代化されました。
1900系は一般車へと格下げされましたが、お正月やお盆などの多客時には
こうした『鳩マーク』を掲げて臨時特急電車として運転されていました。
最近は、車両が停車している側のホームからこのような構図で撮る、と言う事はほとんど
ありません。 テッチャン的に言えば足回り(台車だとか床下機器類)が見えていない、
お客さんが大勢写る( 特に最近は肖像権の問題が大きい)、何となく初心者的な構図だから、
…等々の理由です。
場数を増やしていくと、どうしても『写真としての構図』を求めていくものです。
これを撮影したのは1977年頃だったように思います。
当時、『宇宙戦艦ヤマト』が夕方5時頃だったか?再放送され、1980年前後には『機動戦士ガンダム』
がブレークした頃でした。
この頃から写真右側にあるように工事=七条〜三条〜出町柳の地下線工事が始まってました。
この列車は、画面左側から右側に向かって移動してます。 なので『後追い撮影』と言われています。
強烈なテッチャンマニアの一部は、この『後追い』を蔑視する風潮があるようです。
しかし、SLや電気機関車が激減した現在、大抵の電車やディーゼルカーには前後に運転台があります。
アチラに到着すりゃ、コチラ側に戻ってくるのは当たり前。
それをつべこべ文句つけて、やれ後追いだケツ打ちだと言うのは、『テメエの能の無さを表している』
と言うものです。
七条か四条駅のどちらかでしょう。
左に見えるのが賀茂川で、川横は名物である『床』が展開される広場になっています。
日本庭園の立派な風情ある駅でした。
これは何処かで目にされたことが有るかも知れません。
ウィキペディアに京阪電車700系、の写真として進呈したものです。
他サイトを探しても2,3枚も無かったように思います。
此処は樟葉〜橋本間の大カーブの橋本寄り、現在は整地されていて面影がありません。
この頃は、連写をするにはカメラボディ1台分以上の価格がする『モータードライブ』と言う、
フィルムを巻き上げる装置が必要でした。フィルムカメラの終盤期でも、1枚巻き上げるのに
0.数秒要していました。だから1.5コマ/秒程度が限界だったのです。
と言う事で、現在ならこの0.2秒後より前に次のシャッターが切れますが、当時は未だ中学生坊主で
構図の取り方も出鱈目、先頭が真ん中を過ぎたあたりでシャッター切れば間違いない、と言う訳で
こういう間延びした仕上がりになりました。
現在でも、初心者のテッチャンではこういう構図に『なってしまう』人がそれなりに居るでしょう。
特に編成を丸ごと収めるには、どれ位カメラを線路に対して間合いを取るか、は経験を積まないと
判らないものです。
京阪電車ファンの人なら、1925号車、1926号車は元両運転台の増結車、であったことは
ご存知でしょう。そのため、窓割が他車両と異なり、中央扉が両開きになっています。
鳩マークを付けて臨時特急に入った姿は、1980年当時でも人気の的でした。
3扉化され、塗装が代わり、2連+3連になっても鳩マーク掛け金具が残る1900系。
たしかこの姿のまま5連固定化され、冷房化され、交野線で生涯を過ごしたと記憶してます。
この撮影当時としては、この構図の間取りはまあ合格だった、かな。
これもレアな写真でしょう。
5000系の第一編成か第二編成は、4+3連に分割ができます。
4連ですから、多分三条〜中書島〜宇治間の普通に運用されていたと思います。
五条付近の賀茂川から撮影です。走るのは1300系4連。
退色が進んでいるのはご愛敬。
これも今となってはレアな、2200系の4連普通列車です。
撮影は確か1981年か1982年頃だったように思います。まだまだ日本経済は上向きで、
この沿線界隈も非常に活気にあふれていました。
多分、古川橋駅でしょう。
この600系の6連、中間車に運転台付きがありません。
大抵は4連+3連か、3連+3連で走行していたので、組み換えがあったのか見た事が無い
編成だったことは記憶してます。
駅の向こうに見えるのはナショナルと言う名称の方が一般的であった、松下電器産業の
向上の看板です。
撮影がゴールデンウィーク中でしたので、枚方パークへのお客を運ぶ急行電車も、副標を
掲げてにぎやかな顔面でした。
現在なら、向かい側ホームから300〜500mmクラスの望遠ズームで京都行上り列車を、カーブ付近で
狙うのが定番でしょう。 ただ、その構図を見つけた人が最初に居て、インターネット上でその情報を
掴んだ人がそこに集中すると、人気の列車が通過する際にはホームにテッチャンの人だかりができる、
と言う訳です。
自分としては、そんな情報に踊らされるなんて真っ平御免。沿線がフェンスで囲まれた京阪本線の撮影、
と言うのは現在では食指が動かないのです。
因みに何故京阪沿線では線路がフェンスでやたら囲まれているか?
それは1980年頃に、枚方在住の学生数名が線路に置き石をして、京都行急行列車の5000系が
脱線転覆した事故があってから顕著になりました。